ピタヤ:「見えて来たぞ!」
ピタヤ:「ここが登呂遺跡か」
登呂遺跡(とろいせき)は、静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡。1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定された。弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定される。
ピタヤ:「火起こしの銅像だ」
ピタヤ:「高床式になっているな」
ピタヤ:「小屋に入ってみよう。お邪魔しま~す」
ピタヤ:「まあ誰も居ないか」←居たら怖いぞ
ピタヤ:「木で出来てるから良く燃えそうだな」
ピタヤ:「そいや田んぼがあるなこの時代は米を作ってたのか」
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされる。
ピタヤ:「博物館があるようだ行ってみよう」
ピタヤ:「さて行くか」
ピタヤ:「登呂遺跡はこのあたりにあるようだ」
ピタヤ:「村人総出で農作業したようだ昔はトラクターとか無いから大変だなあ」
ピタヤ:「全体はこんな感じだったようだ。まあなんも無いよな~コンビニもパチンコ屋もスマホも無い・・・なにしてたんだろう?」
弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であった。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であり、また武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏付けである。
ピタヤ:「戦争してたのか日本人が戦争しなくなったのはごく最近の話なんだなぁ」
ピタヤ:「わぁうまそう酒も造ってたのか」
ピタヤ:「縄文時代とは違う特徴があるらしい」
縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて堅い。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼きをするのに対し、弥生土器が藁や土をかぶせる焼成法を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。
ピタヤ:「これが銅鐸か」
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
ピタヤ:「登呂遺跡のゆるきゃらトロベーだってなんでも有りだな」
ピタヤ:「遥か昔この場所で自給自足の生活を送ってたわけださて次行くか!」
[…] 前回からの続き・・・ […]