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ピタヤ:「武田通りだってここをまっすぐ行けば武田神社か」
ピタヤ:「けっこう交通量が多いんだな」
山梨県道31号甲府山梨線は、山梨県甲府市中央一丁目から山梨県山梨市北字下町に至る県道(主要地方道)である。区間によって、舞鶴通り(まいづるどおり)、武田通り(たけだどおり)と呼ばれている。
ピタヤ:「2DKで4万8千からだって都内なら9万はするぞ!引っ越そうかしら」
ピタヤ:「途中に山梨大学のキャンパスがある」
山梨大学は、山梨県甲府市武田四丁目4-37に本部を置く日本の国立大学である。1949年に設置された。大学の略称は梨大(なしだい)。
ピタヤ:「山梨からノーベル賞受賞者が出たのか」
大村 智は、日本の化学者(天然物化学)。北里大学特別栄誉教授。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
ピタヤ:「武田神社に着いたようだ」
武田神社は、山梨県甲府市古府中町にある神社。躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神とする。旧社格は県社。
ピタヤ:「元々このあたりは武田家の屋敷があった場所らしい」
所在する甲府市古府中町は甲府盆地北縁に所在する。戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。
ピタヤ:「さてお参りしていこう」
ピタヤ:「デカイ皿だな」
ピタヤ:「有名な孫子の旗があるのか」
ピタヤ:「見学していこう」
写真撮影は禁止なのでコメントのみです
ピタヤ:「おお!これが重文の刀か今でも鋭い光を放ってるなこちらは、孫子の旗だ!デカイ3メートルくらいあるんだな」
ピタヤ:「なぜキティちゃん?」
サンリオは山梨県の職員だった辻信太郎が、同県の物産である絹製品を販売する同県の外郭団体だった山梨シルクセンターを株式会社化。社名をそのまま引き継いで、創業したのが始まりである。だがその本業で同社は早々に失敗し、小物雑貨の販売に転じた。
ピタヤ:「サンリオは山梨が発祥の企業なのか」
ピタヤ:「信玄はここを拠点に各地に出陣していったのか」
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。
ピタヤ:「甲府駅に戻るか」
ピタヤ:「なんだこの石碑は?なになに太宰治の旧居跡だって!」
太宰は石原美知子と結婚式を挙げる。この時、太宰は井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出。その中で「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書き、過去何度も失敗した自殺未遂から立ち直り、美知子を一生かけて守っていくとする決意を語っていた。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。
ピタヤ:「その近くに太宰が通った銭湯が今も残ってるようだ」
ピタヤ:「ひとっ風呂浴びてくか」
ピタヤ:「番台があって昔ながらの銭湯だいい湯だな~」
全て源泉の湯使用、広々とした浴場でリラックス効果はバッチリ。
地域に密着した地元で人気の銭湯です。
脱衣所には昭和40年代の看板が一面にあり必見!
ピタヤ:「なんと温泉が使われてるのかさすが山梨だな」
南アルプス連峰や奥秩父など山々に囲まれた山の都甲府。県都の中心部で温泉が湧くことは全国でも珍しいと言われている。
ピタヤ:「地元の神社だ太宰も来たことあるのかな?」
ピタヤ:「駅に戻ろう」
ピタヤ:「なんかこの色・・・国際興業みたいな色だな」
山梨交通株式会社(やまなしこうつう)は、山梨県の甲府盆地を中心とした地域、いわゆる国中地方の峡中・峡西地域において路線バスや貸切バスの運行を行っているバス事業者である。
1960年代に入る頃には山梨交通の経営状態はかなり悪化していた。当時の経営者の放漫経営に問題があったといわれており、県会議員や大株主の依頼を受け、国際興業の社主であった小佐野賢治が山梨交通の再建にあたることになった。
ピタヤ:「甲府駅に戻って来たぞ!」
[…] 次に続く・・・ […]
[…] 前回からの続き・・・ […]